1589年カトリーヌ・ド・メディチ亡きあとはフランソワ2世の弟アンリ3世の愛妾ルイーズ、1624年にはアンリ4世の愛妾ガブリエルが居城とし、その後ヴァロワ朝の資産として100年を経過。1720年にブルボン公ルイ・アンリが買い取り、城の調度を売却して彫像の多くは、ヴェルサイユ宮殿に納められ、地所そのものはクロード・デュパンのものに。クロードの妻ルイーズ・デ・デュパン(ジョルデュ・サンドの叔母)は、ヴォルテール、ベルナール、ジャン・ジャック・ルソーなどの啓蒙家を多く招待して城を生き返らせました。ルイーズはフランス革命の折にも革命軍の破壊行為から城を守ったそうです。
狩猟目的の男性的なシャンボール城にくらべ、小ぶりであるだけでなく、どことなく気品とやさしさの溢れるシュノンソーは、歴代の女性城主によるものと思われます。ディアーヌの寝室・カトリーヌの図書室などを巡り、地下へ下りると台所。木戸は川に繋がり、小舟が直接食材を運んでいた様子も浮かびます。
しかしこの城の必見は、グランアベニューと呼ばれる長い並木道の両側に見え隠れする庭園の数々でしょう。お城を背にして道を下りながら、まずはテイータイム。左手の奥まったカフェはオランジェリーといって、冬季に鉢植えのオレンジを避寒させた大温室。フルーツケーキとテイーで、ロングウオークを癒します。
並木の向こう側も気になるけれど(大きくシンメトリーなカトリーヌの庭園など)、そのまま左手を歩くと大きなマロニエが二本。それもピンクと白とは珍しい!その隣は秘密の花園への扉のような小さい木戸があり入ってびっくりの花園でした。バラやルピナス、名も分からぬ無数の花々が今が盛りと咲き誇っているのです。大感激!夢中になって咲いている花たちを撮りました。次の扉の奥には菜園。羊もいて自給自足のライフスタイルも永遠の光景にちがいありません。
     
つづく

シュノンソー城

お次はシュノンソー城。西へ向かって走ります。途中で「おっとここここ・・・」と車が停まったのは小ぶりの中世のお城。フーゲレ・スー・ビエーブル城。先を急ぐから中へは入りませんが、入口の門番小屋が可愛い!赤い窓枠やドアの回りにピンクのバラが満開です。このドライブがこれからも素敵なものであることを約束してくれるような光景でした。

シャンボール城から森への道を・・

初夏のフランス旅 Ⅱ

シュノンソー城への入口脇にある掘割

マロニエの大木 ピンクと白と

薔薇に囲まれた
門番小屋

お城に近い村の家

オランジュリー

グランアベニュー

5月27日、ロワール川沿いの美しい城のひとつ「シャンボール城」。あまたの城が持つドラマチックな歴史を経たこの城は、1500年代にフランソワ1世の狩猟小屋として建てられたもの。パリからロワール川までは肥沃な土地に恵まれ、広大な土地は農作物に適していたけれど、ロワール川以南は泥炭地で作物には適さず、森から木を伐り出したり狩りの場となって、パリに住む貴族たちの森遊びの場であったといいます。それにしても13.000エーカーという途方もない森には鹿も生息しているらしく、いったいどこまでつづくのかしらと経験したことのない森です。その森の真ん中あたりに白鳥が羽を休めたような白壁の城には440の居室と暖炉が365、階段が74。天井の高いガランとした部屋は冬季には寒く居住には適さず、狩猟期間には2.000人分の食材などを運ばねばならなかったそうです。またフランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴィンチとも親交があり、中央の二重螺旋階段はダ・ヴィンチ作とも言われています。シルヴィーさんによれば、数年前まで壁は黒く、ようやく洗い出しが終わって綺麗!とのこと。見学が何十年も遅くなってラッキーだったかも知れません。お城のまわりの村が残っているような一角にあるレストランでランチにします。窓からシャンボール城を眺めながら贅沢なひとときとなりました。

グランド・ギャラリー

華麗であったダンスフロアは
戦時中、野戦病院に

秘密の花園にて

菜園の垣根

燃えるような京都です。5月20日から取り掛かったタペストリー「3・11を想うⅨ」は
7月30日に完成しました。この旅をはさんで約2か月。ひとりで手掛け終えました。
10月の箱根展にて展示いたします。フランスの旅が進みませんが、これから頑張ります。
皆さま猛暑に気をつけてお過ごしください。    2019・8・2    asako

台所

ウツギの花盛り

翼塔や出窓の装飾、劣化する屋根瓦

ダ・ヴィンチ生誕500年展

・・・

図書室だった部屋

シュノンソーは水に浮かんだお洒落なお城。ずっと憧れていたお城です。パーキングしてから見上げるような緑の並木道が半端ない!徐々に見えてくるシュノンソー城は、文献上に初めて登場したのが11世紀、元製粉所とありますから、きっと水車小屋があったのでしょう。
城はアンリ2世の愛妾のものとなったり、王がなくなると本妻のカトリーヌ・ド・メディチが乗っ取るなど波乱万丈。その後もこの城は代々女性の相続を繰り返します。それでどことなく優雅なのかも知れません。でも、第二次世界大戦中は川に掛けられた橋の上に1577年に造られた「グランド・ギャラリー」は野戦病院となり、向こう岸へそれとなくパルチザンを隠し逃れさせたという逸話に感心してしまいます。