30日、朝食をとりに1Fにある広場の見えるレストランに行くと、前夜、留学中のスイスから着いたYさんのお嬢さんと初顔合わせ、快活で賢そうな高校生です。午前中は自由行動の日。再び佐竹さんとドラツ市場を目指し、朝の活気のある表情を見に出かけます。パプリカ・ビーツ・ナス・モモ・リンゴ・ブドウ・・・。チーズやハチミツもあり、市民の台所といった広場です。なにやら中世の衣装を付けた一団がやってきて、イベントのチラシを配っています。「やあ!」おもわず挨拶しあったのは自転車を押して歩いてきた青年。横浜の方。ポーランドを出発してあちこちまわる途中とのこと。今も元気に旅を続けているでしょうか。広場の裏手はカプトル地区。聖母被昇天大聖堂の尖塔に守られているような、修道院もある信仰熱き区域です。「あそこの先に行ってみよう」と言いながら、気ままに歩ける楽しい時間。そんなお屋敷通りの奥まった所ににショッピングセンターがあり、お洒落な店内やブチックにびっくり。通り抜けて坂道を下りると、昨日アイスクリームを食べたカフエのあるトカルチチエバ通り。「うーん、なるほどこうくるか」と地図に描かれない高低差に感心しながらイエラチッチ広場に戻ります。

この日はブンデック湖畔でザグレブ市主催のランチパーティー。ここで初めて京都市長ご一行と出会います。もしかして・・と期待していた市長付き通訳は、やっぱりシチグリッチ・マスミさん。およそ20年ぶりの再会です。ユーゴ各共和国が入り乱れて戦争に突入した時、ザグレブの市長からの姉妹都市として支援を要請する親書を携えて京都に来られたマスミさん(京都出身)。そのことを新聞で知り何かできないかと、当時小学校のPTAで役員をしていたことから、「ザグレブのおはなしを聞く会」を開きました。聞けば聞くほどおぞましい、えぐりだした目玉を呑ませる・・なんて信じられない話に戦争の恐怖を教えられたのです。集まったカンパをマスミさんに手渡し、以後戦争の早期終結を祈るような日々を過ごしました。ザグレブを訪れた折に観た、美しい若者たちが民族衣装を着て唄い、踊る姿が目に残り、彼らが戦場に赴き命を落としていないことを願うばかりでした。数年後、京都へ里帰りされたとき、お電話をくださり「もう大丈夫だから、また来てね」と言われていました。わたしもその後いそがしく、間遠となっていたマスミさんですが忘れたことは無く、今回の旅に参加することを知らせる時間の無いままの再会でした。「石井さ〜ん」覚えていてくださいました。ハグをしてご無沙汰をお詫びします。当時からザグレブで唯一の日本語通訳者でしたから、今回のお仕事も当然のこと、本当に会えて涙が浮かんできます。丁度夫が他界したころですから、それ以降の月日が胸をよぎります。のどかな湖畔の野外レストランでの嬉しいひとコマでした。

食後、この夜舞台公演が催されるリシンスキーホールへ行き、いよいよタペストリーの展示準備。なんとかなると言われていたので気軽に行ったのに、結局なんの下準備も出来ていなくてあ然。こんなこともあろうかと、両面のガムテープをタペストリーに貼り付けて、ロビーの壁面大理石に直接付けることになりました。「展示のお手伝いいをします」と、折目正しい日本語で挨拶をしてくれたのはT君。鹿児島出身で、お母さんの二度目の結婚で13年前にクロアチアに来たそう。お父さんはインドネシアの方だったと言われて納得。小麦色の好青年に誰もがひとめぼれするようで、途中から舞台にひっぱり上げられて和服を着せられ、通訳兼サポーターに仕立てられていました。タペストリーも舞台の大道具さんが慣れない素材に戸惑いながら壁に貼ってくれて一件落着。ホテルに戻って着替え、ふたたびホールへ。公的な行事の送り迎えは、旅行社が仕立ててくれたガイドさんと運転手さんが時間どおりに送り迎えをしてくれて大助かり。京都踊り子隊の新体操のような日本舞踊?、着物(振袖)の着付、ピアニストとクロアチアのベーシストの共演、雅楽、日本でも見たことのない舞台をザグレブ市民と共に楽しみ大いに湧きました。幕間や終了後、ロビーで多くの方々からタペストリーを見ながら「素晴らしい!」と笑顔で声を掛けられてほっとしました。京都市主催のデイナーパーティーで、もし会えたらと持参していたお土産をホテルから持って出たのでマスミさんに手渡し、しばしお話したあとSAMOBORという村への行き方を尋ねました。「あぁ知ってる。明日用事がなければ連れて行ってあげるのに・・」。今度はまたゆっくり来ますね。お元気で。
つづく

晩夏の旅 U

右がマスミさん

手伝ってくれた
    タマリ君

門川市長、佐竹さんと

特命大使や市民の方と

ドラツ市場の朝

旧市街で

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