出会ったころは南仏のアンチーブというカンヌにも近い海辺の街に住んでいたので、リヨン経由で訪ねたり、それからパリにも僅かだけど暮らし、ゴヴァン夫妻はもともとノルマンデーの出身ですから、ルーアンに移られたときも、ヨーロッパ7か国を巡っていた友人たちと訪ねました。裏庭が広くてイチジクの大きな樹のある、その家の一番目の訪問者としてゲストブックにサインしたことも思い出されます。
その後、長いこと暮らしたことになるベルノン郊外の小さな村の四つ角にある元旅籠は、ブルーの外壁、L字型の二階家で、広い芝生の真ん中に小ぶりの実がなるリンゴの木があり、温室とガレージ脇には菜園もありました。パリに行くたび、サンラザール駅から列車に乗って、ホーム脇に停めた車にピックアップされて何度も泊まりに行ったのです。(改札を通らず)
ジヴェルニーの人気が出て来てから駅舎は改装され、開放的だったホームも柵に囲まれて、どれほど昔のことだったかと歳月を感じます。二人で泊りがけでノルマンディ-をドライブしたり、日曜日には新聞に告知されていた近くの村の「ノミの市」を巡ったり、帰り道にとてつもなく大きな納屋のアンチック・ショップで方眼編みレースのベッドカバーを見つけていると、どこからか「アサコ!」と呼ばれ、行ってみるとニット関係の古い雑誌の山。あまり参考にならないけれど、折角探してくれたので求めたことも度々ありました。。いつも私のことを気遣い、誰もが出来ない出会いを重ねる、そのことを喜んでくれていたのです。
ゴヴァン邸の二階のアトリエと小型のラジオが置かれたかわいいキッチンが瞼に浮かびます。別荘などの建築家であったフランク氏と、自ら創作しながら織物作家たちをまとめるアソシエーツの代表となり、いそがしく活躍していたジャクリーヌさんは、日本でもファンが多く、出版や催事で良く来日もされました。
娘のロールと二人を京都御所内の仙洞御所に案内したこともあります。いっぱいの想い出が蘇りますが、今は車の運転も出来ず、家の整理にも思うように出かけられないもどかしさや、居候の肩身の狭さなど、里美さんの通訳があればこそ心の内を明かしてもらえる、モダンなレストランでの貴重なランチタイムとなりました。
1月5日(金) この日は手芸家のジャクリーヌ・ゴヴァンさんに会います。ここ数年お互いに音信が途絶えていましたが、パリもラストの旅かも知れない、と考えてメールでお知らせしたところ、ようやく12月のクリスマスも近いころに返信がきました。それも13日にご主人のフランクさんが亡くなったという悲報を伴ったつらいもの。しかし「アサコ、会いたい」と書かれているのです。
ジャクリーヌさんは画家モネのミュージアムのあるジヴェルニーも近いベルノンという駅からセーヌ川を挟んで反対方向に約1時間もドライブしなければたどり着けない小さな村に住んでいます。こちらの時間もないことからメールでは「ベルノンで会いましょう」と提案していました。でも現在はパリの娘さんの所に居ること、そして2年前から難病といわれるP病を患っているなんて・・・。どおりで毎年欠かさず我が夫の命日(15日)にはFAX(その後メール)を送ってくれて、本当に頭の下がるほど律儀な方なのに、届かなかった訳です。私も雑事に追われ、英語であっても、辞書でスペルを確かめながら、さらさらっと書けるわけでなくご無沙汰を心の中で謝る日々でした。「お互いに12月は淋しさがつのる月となりますね」と、お悔みのメールを送り、どこで会ったら良いのかなど、パリのことは里美さんと打ち合わせてもらうことにしました。
30年前にひと夏交換した家はパリ郊外のマルヌ川沿いにあり、
それからバスチーユ広場に近いアパルトマンのグルニエ(最上階)、
そして終の棲家?は4部屋続きの豪華なリビングと庭つきの古色蒼然とした
アパルトマン。
北側にはゲストルームとお洒落なキッチン・水回り、広いクローゼットとゆったり
した玄関ルーム。さすが!のひとことです。
メトロ「ヴァンヴ駅」から
1kmもつづくレベルの高いノミの市
長女サラの息子たち
前日までイヴ&カトリーヌの祖父母に
連れられてノルマンディ-に行っていた
ランチはイブさんの手料理
前菜はカキ メインは白身魚と野菜のグリル
カトリーヌ・ドヌーヴ
この数日後、セクシャルハラスメントに
対するフランス的な見解を述べた
カトリーヌさんはお店をクローズしてから
世界の民族衣装の本を数冊出版。
最新作は靴とバッグ。エストニア・キヒヌ島の手編みの靴下も・・。
近々日本語版が出て来年には日本での展示会も予定されている。
里美さんはパリ在住46年。近年はフランス文化省から派遣されて
世界中を飛び回り、80冊の絵本は多くの国で翻訳されて、子どもたちに
読まれています。
今年はニューカレドニアの海のお話しを出版し、来年はキルギス。
モロッコで子どもたちにお話しをするためにアラビア語に再度挑戦中。
キャンドルを灯して花も飾られ、シャンパンで
カトリーヌ邸のゴージャスな昼下がり
寒い寒いパリに出かけて、長いお付き合いの友人たちと久しぶりに会いました。
皆一様に歳を重ねていたけれど、積み重ねた友情は衰えを知りません。いつもはアパルトマンから
あまり外出しない里美さんを4日も連続で引っ張り出して申し訳なかったのですが、里美さんなしでは
成り立たない旅でもありました。そのことに感謝しています。
やっぱりパリは素敵!ラストと思わずに、元気でいればあちこち未踏の世界を訪ねながら、時々
パリにも出かけよう!そう思いながら年頭の旅を終え7日にパリを出て8日に帰国いたしました。
2018・3・20 asako
たった4日間のスケジュールを考えると金曜日しかなく、しかもパリといっても「モー」という郊外とのこと。土曜日はパリの病院に診察があるとのことで、2日もパリ通いは気の毒ねと、私たちが出かけることにして、どこか駅の近くでランチをご一緒することにします。パリ東駅まではピガールまで坂を下りてバス。東駅でもカード清算に手間どい、なんとかチケット売り場を探してホームをウロウロ。一人だったら分かったかしら?
2階のバルコニーには迷彩服の人たちが銃を構えて並んでいます。東欧やドイツ方面からの国際列車の終着駅ですから、やっぱりテロの脅威がまだあるのでしょうか。パリから東へ向かう近郊列車に乗ると、なんともカラフルなシートに二人で釘付け。この色がいい、これも素敵!と、やっぱりお洒落なフランス仕様です。
40分で「MEAUX」モー駅着。金髪でいつまでも可愛いジャクリーヌ!膝までのブーツを履いてお洒落なマダムが待っています。何年ぶりでしょう。抱き合って涙のこぼれる再会でした。
同い年のジャクリーヌさんとの出会いを書き始めたら日が暮れそうですが、カトリーヌさんや里美さんと知り合うより前から始まります。35年以上前のこと、京都・高島屋の催事で来られたジャクリーヌさん。その前に雑誌で紹介された記事を見て作品に興味を持っていたところ、彼女の額絵を扱っていた京都にある「ルシアン野村」の重役の方から数点を見せていただく機会を与えてもらいました。ピンクの花柄壁に囲まれた部屋のベビーベッドに、赤ちゃんが寝ている「シー!」というタイトルのアップリケ画です。高島屋へは、その額絵を飾っている、当時まだショップをオープンしたばかりの店内写真を持参しました。ごあいさつがてら「あなたの作品を持っています」というと、通訳さんに「このお店に行きたい」・・・と意外な言葉。どうぞWELCOM
! こうして二人は出会い、それぞれ子育てをしながら創作活動をするという共通点だけで友情を育んできたのです。
トラムで二駅の所に数年前に
引っ越したカトリーヌは自転車に
乗ってノミの市にやって来た
昨年の夏にフランク氏の突然の発病と宣告どおりの期間を耐えて別れの経過もうかがいました。ジャクリーヌ元気を出して。再び針を持ち、夢があり美しい作品を創ることは無理と思うと切ないものがあります。でもあなたの作品は、今でもたくさんの人々の心を優しく見守ってくれているのです。アンジュのアトリエでも季節ごとに架け替える「天使の額絵」、宝もののように貴重です。
仕事の合間に駅に迎えに来てくれるというロールを待つジャクリーヌさんを再び抱きしめます。「アビエント またね」。
里美さんと「折角だからモーの街を歩きましょう」と、川沿いに見える城壁の向こうに広がるという旧市街までバスに乗ります。「フランスの街ってどこも同じよ」と言うけれど、「オルレアンはやっぱりお金持ちさんの街だったね」と里美さん。
石畳の静かな繁華街を抜けると広場、何やら歓声が聞こえてきます。一本の樹の回りにリンクが設営されて老若男女がスケートを楽しんでいます。若い人が多く、上手な子も初めてらしいへっぴり腰の子もいて、なかなか面白い冬ならではの光景でした。
モー駅からパリへ戻る列車に乗るまでと乗ってからも、笑い話に尽きない数々もあり、この日も暮れました。
6日(土)はカトリーヌさんとの一日です。この日のことを書くには、また1か月後となりかねないので、写真の説明のみでお許しください。たった4日間のことなのに、もう桜も開花というのですから、さすがに恥ずかしくこれでお終いとさせていただきます。お付き合いをありがとうございました。
カラフルな列車のシート
実物はもう少し落ち着いた色